ホラーにしたくて書いた小話。
一緒に事件を解決した相棒が、実はラスボスでしたみたいな話。
火口(ホグチ)
祝ぐと口。祝いの言葉を述べる口。物を言う姓を持つ。
火とは人の恩寵であり、人の暴力でもある。理性と本能の性質を持つ。
口は開口部であり境界。境界性を表す字を持つ。
妖物に求められやすい性質。彼のもつ境界性の字が、現実への戸口になる。また寿ぐ姓が”信じなければないと同じ”性質の妖物に力を与えるため。
中津川(ナカツガワ)
趣味で妖物を払っている人。ハサミで切る。
COC探索者の中津川とは別人だけど親族かもしれない。
「ビルの見取り図に、こんな店はない」
現実には、存在しない。
「妖物の領域に店を構えていたんなら、それは向こうに属すものだ」
ゆっくりと噛んで含めるように、中津川は言った。
「ちくしょう」
その音は喉ではないところから鳴った。
「折角、喰らってやろうと思ったのによ」
皮膚の裏が泡立つような怖気が、腕を駆け上がった。
男の声であるように思ったのは、それが妙齢の女の声を繕うのをやめたからかもしれない。後から思えばそれは、男でも女でもないものだった。
ニヤリと笑った主人の顔に、ヒビが入る。黒い亀裂が額に首に着物の上にまで広がり、芸者絵のジグソーパズルを目の前にしたのかと錯覚した。
やがてぽろりと頬のひとひらが崩れたのをきっかけに、全身が崩れ落ちた。それぞれの切片は爪の先ほどで、色とりどりの花びらのようにも見えた。
風に流されているのかと思ったそれが自立して這い回り、靴を這い上がろうとしていると気づいた時、火口は悲鳴をあげた。
蟹か。否、蜘蛛の類か。
切片に五、六本生えているのは、節のついた虫の足ではなく爪のある人の指だ。主人の体は崩れた端から指を生やし、てんでバラバラにもがきながら箪笥の隙間に、畳の継ぎ目に、障子の向こうに消えていった。
それはあっという間の出来事で、あっけにとられた中津川がハサミを抜く頃には、全て跡形も無くなっていた。
以後しばらく、火口は人の指の生えた無数の虫が家の隙間やら服のポケットから湧き出す錯覚を覚えては悲鳴をあげた。
中津川はその度に、一つ一つ隙間を見ては確認しなにもいないと火口を宥め、三月ほど経つ頃には虫が見える気の病もすっかりと落ち着いていた。
そこから更に、一月のちのことである。
火口は再び、虫を見た。
今度は気の病ではないという確信が、あった。いもしない虫を見るときは、決まって妙に気が高ぶって息が乱れるのに、そのときは心が落ち着いていたからだ。妖物と出会った夜のことはあまりに日常とかけ離れ、幻の虫と同じく気の迷いなのではないかとすら思い始めていた頃だった。
当事者の記憶から隔たった場所から眺めれば、なぜあんなに慄いていたのかと思う。
ああ、やはり居るのかと、地下鉄でドブネズミをみかけたような気持ちでそれを見た。居るのであれば、どこに居るのか確かめなければ、気持ちが悪くて眠れない。全部の隙間を覗きこむわけにはいかないのだから。
火口は、虫の後を追いかけていた。中津川がいたならば、止めたろう。
その時、中津川は共にいなかった。
既視感があった。雑踏を抜い、ビルの隙間へ。臭うゴミ箱を避け、錆びたドアへ。
蝶番が軋む。
提灯が灯る。
藍染に文字を白く抜いた暖簾の奥に、和装の主人が座っている。追いかけていた虫は、親指の爪として加わっていった。
顔の輪郭が固いから男と判断したものの、それは紛れもなく女主人と同じものだった。
「死人に出くわしたような面をしやがる」
肩肘をついて主人はニヤニヤと笑った。背後で扉が閉まる音に、火口は飛び上がった。
自力では、開くまい。妖物の巣に入ってしまったのだから。
「化け物に出くわした顔の方だなぁ」
「素性を晒した妖物は、人前から消えるんだろう」
「お前がこっち側に来るからいいのさ」
提灯のぼんやりと揺れる灯りの下では、何もかもが不確かに見える。足の下が揺れているのか頭が揺れているのか、わからなくなっていた。
「火口」
名前を呼ばれてしまった。
名前は魂の緒。もう、こっち側だ。
火口は、眩暈を覚えて目を閉じた。
PR
「ビルの見取り図に、こんな店はない」
現実には、存在しない。
「妖物の領域に店を構えていたんなら、それは向こうに属すものだ」
ゆっくりと噛んで含めるように、中津川は言った。
「ちくしょう」
その音は喉ではないところから鳴った。
「折角、喰らってやろうと思ったのによ」
皮膚の裏が泡立つような怖気が、腕を駆け上がった。
男の声であるように思ったのは、それが妙齢の女の声を繕うのをやめたからかもしれない。後から思えばそれは、男でも女でもないものだった。
ニヤリと笑った主人の顔に、ヒビが入る。黒い亀裂が額に首に着物の上にまで広がり、芸者絵のジグソーパズルを目の前にしたのかと錯覚した。
やがてぽろりと頬のひとひらが崩れたのをきっかけに、全身が崩れ落ちた。それぞれの切片は爪の先ほどで、色とりどりの花びらのようにも見えた。
風に流されているのかと思ったそれが自立して這い回り、靴を這い上がろうとしていると気づいた時、火口は悲鳴をあげた。
蟹か。否、蜘蛛の類か。
切片に五、六本生えているのは、節のついた虫の足ではなく爪のある人の指だ。主人の体は崩れた端から指を生やし、てんでバラバラにもがきながら箪笥の隙間に、畳の継ぎ目に、障子の向こうに消えていった。
それはあっという間の出来事で、あっけにとられた中津川がハサミを抜く頃には、全て跡形も無くなっていた。
以後しばらく、火口は人の指の生えた無数の虫が家の隙間やら服のポケットから湧き出す錯覚を覚えては悲鳴をあげた。
中津川はその度に、一つ一つ隙間を見ては確認しなにもいないと火口を宥め、三月ほど経つ頃には虫が見える気の病もすっかりと落ち着いていた。
そこから更に、一月のちのことである。
火口は再び、虫を見た。
今度は気の病ではないという確信が、あった。いもしない虫を見るときは、決まって妙に気が高ぶって息が乱れるのに、そのときは心が落ち着いていたからだ。妖物と出会った夜のことはあまりに日常とかけ離れ、幻の虫と同じく気の迷いなのではないかとすら思い始めていた頃だった。
当事者の記憶から隔たった場所から眺めれば、なぜあんなに慄いていたのかと思う。
ああ、やはり居るのかと、地下鉄でドブネズミをみかけたような気持ちでそれを見た。居るのであれば、どこに居るのか確かめなければ、気持ちが悪くて眠れない。全部の隙間を覗きこむわけにはいかないのだから。
火口は、虫の後を追いかけていた。中津川がいたならば、止めたろう。
その時、中津川は共にいなかった。
既視感があった。雑踏を抜い、ビルの隙間へ。臭うゴミ箱を避け、錆びたドアへ。
蝶番が軋む。
提灯が灯る。
藍染に文字を白く抜いた暖簾の奥に、和装の主人が座っている。追いかけていた虫は、親指の爪として加わっていった。
顔の輪郭が固いから男と判断したものの、それは紛れもなく女主人と同じものだった。
「死人に出くわしたような面をしやがる」
肩肘をついて主人はニヤニヤと笑った。背後で扉が閉まる音に、火口は飛び上がった。
自力では、開くまい。妖物の巣に入ってしまったのだから。
「化け物に出くわした顔の方だなぁ」
「素性を晒した妖物は、人前から消えるんだろう」
「お前がこっち側に来るからいいのさ」
提灯のぼんやりと揺れる灯りの下では、何もかもが不確かに見える。足の下が揺れているのか頭が揺れているのか、わからなくなっていた。
「火口」
名前を呼ばれてしまった。
名前は魂の緒。もう、こっち側だ。
火口は、眩暈を覚えて目を閉じた。
PR